日本の中の朝鮮文化

今までみてきたように、古代の日本列島・倭にとって、朝鮮半島から渡ってきた人たちの役割は、大変に大きいものがありました。そのことは、神話、伝説、地名、神社、寺院、渡来人の伝えた技術と文化などの例をあげながら、主に西日本についてこの本で学んできました。しかし、渡来人の足跡は西日本だけではなく東日本にも残っています。ここでは、神奈川と山梨のいくつかの話を紹介することにします。あなたの住む町にも、きっとそのようなあとは残っています。これを参考にして、あなたも、自分の町の、朝鮮文化のあとを訪ねてみましょう。

大磯の高麗山(こまやま)と高来神社(神奈川県)
神奈川県の大磯町に残る朝鮮から渡ってきた人たちのあとを訪ねてみましょう。ナポレオンの帽子の形をした高麗山は、200メートルにみたない低い山ですが、海のそばで、相模平野のどこからでもよく見えます。相模湾からもよくめだつ山で、関東地方に入植した渡来人たちが、ここを目印に上陸したと想像してもおかしくありません。
この高麗山のふもとに、高来神社があります。ここは、もと高麗権現社(こうらいごんげんしゃ)とも言われていました。権現というのは、仏さまが、みんなを救うために神さまの姿になってあらわれたと言われるものです。江戸時代以前は高麗寺として知られていました。明治になって、天皇家と結びつきが強いとされる神社をより大切にして、江戸時代に大切にされた仏教や寺院を軽んじる考え方がさかんになり、「たかく」神社と読むようになったのです。ところが、今でも地元の人たちはこの神社を「こま」神社と呼んでいます。
高麗山の北に続く丘陵と、丹沢山地にはさまれて、秦野盆地(はだのぼんち)が広がっています。秦野という地名も渡来人の秦(はた)氏と関係があるのかもしれません。その秦野盆地のすべての水を集めて、高麗山のまわりを流れて相模湾にそそがれるのが花水川です。河口付近の地名は「唐ヶ原(もろこしがはら)」と言います。また、高来神社の一帯は「高麗」と言います。両方とも渡来人たちとのつながりをうかがわせる地名です。

王城山と釜口古墳(神奈川県)
高麗山の西に小高い丘があります。王城山です。横穴古墳がたくさんあり、山全体が朝鮮式の山城だったのではないかと考える人もいます。海に面して、とても見晴らしのいいところに釜口古墳があります。幅2.5メートル、奥行き3メートル、高さ2メートルの古墳です。大きな切石を使っています。石室をおおっているのは一枚の岩で、大きな力を持った人の墓と考えられます。高句麗からの渡来人のリーダー、高麗王若光の墓だという説もあります。
この古墳は早くから入り口が開かれていて、源頼朝が狩りの時かまどに使ったという言伝えから、釜口古墳と呼ばれるようになったのです。そのため、死者とともにほうむった埋葬品は、江戸時代までにほとんどなくなっていました。それでも、新羅のものと考えられている青銅でできた、かわいらしいスプーンのようなものが出土しています。

権現丸(ごんげんまる)と高句麗(神奈川県)
高麗神社の大祭が2年に一度、7月18日に行われます。その時に、大磯港の近く照ヶ崎(てりがさき)まで飾り船を引いていくという行事があります。その船が、明神丸(みょうじんまる)と権現丸です。明神丸は県立大磯城山公園の中の大磯郷土資料館に展示されています。船を引く時に船子たちが歌う祝い歌がありますが、そのおおよその意味は、次のようなものです。
応神天皇のとき、外国の船が八つの帆を揚げてやってきた。地元の漁師が漁船をこぎよせてみると、ひとりのおじいさんが出てきて、「私たちは、高麗国の大名だったが、ひどい国になったので、日本にやってきた。おまえたちが言うことを聞くなら、大磯の大名になって、おまえたちの子孫繁栄を守ってあげよう」というので、地元の人たちは、「ありがたや、これこそ権現様だ」というので、この船を権現丸と名づけたのだとさ。

積み石塚古墳と高句麗(山梨県など)
山梨にも遠い昔から、多くの渡来人が住んでいました。甲府盆地のまわりの山には、多くの「積み石塚古墳」があります。「積み石塚古墳」とは古代の高句麗に見られる古墳で、石を積みあげてつくっていったものです。高句麗では400年ごろから盛土墳に変化していくのですが、日本では400年代後半から500年代にかけて、高句麗からの渡来人が、これらの墓を自分たちの墓としてつくったと言われています。積み石塚古墳には渡来人の故郷への思いが息づいているのです。このような積み石塚古墳は、山梨県の他に、長野県、徳島県、香川県などにも多くみられます。

日本三大奇橋「猿橋」と朝鮮(山梨県)
山梨県大月市にある日本三大奇橋の一つ「猿橋」は、伝説によれば、7世紀頃に百済から日本にやって来た造園博士、芝蓍麻呂・芝耆麿(しきまろ)が、猿の群れが蔦をつかって川をわたるのにヒントをえて橋をかけ、その名もこれにちなんだと言われています。
法隆寺や四天王寺、そして東大寺といった建物だけではなく、渡来人の技術は、古代の日本各地の橋、ダム、港、運河、ため池などの建設に大きな力を発揮しました。渡来人たちにとっては、はるばる渡ってきたこの日本列島こそ、自分たちの新天地だったのでしょう。

* * 考えてみよう、調べてみよう * *

@ あなたの住んでいる区・市や郡の地名で、朝鮮からの渡来人と関係する地名を調べてみよう。
A 日本の神話や伝説の中に朝鮮からの渡来人と関係するものを調べてみよう。
B 古墳をつくる風習や伝統は、古代のどこの国からどのようにして日本に伝わったのか考えてみよう。

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