遣新羅使・遣渤海使の時代

新羅による国の統一
 奈良の大仏がつくられた時代は、遣新羅使(けんしらぎし)や遣渤海使(けんぼっかいし)が、日本から朝鮮にむけて送り出されていた時代でした。この時代の東アジアを知るために、使節をさかんに送った相手国である、新羅の様子を見てみましょう。
 百済を滅ぼした新羅と中国の唐は、668年には高句麗をも滅ぼしました。しかし、百済や高句麗の人々は、唐の支配に対して立ちあがり反乱が続きました。この反乱軍とともに新羅軍は唐との戦いをはじめました。そして、戦いに勝ち、唐の勢力を朝鮮から追い出しました。このようにして676年には新羅による国の統一がなされました。この国を三国時代の新羅と区別して、統一新羅と呼びます。
 唐との6年にわたる戦いは、新羅、高句麗、百済の人々が力をあわせた戦いでした。さらにその後、統一新羅による、国のまとまりを大切にする政治により、朝鮮半島に住む人々は、一つの民族としての一体感を身につけていきました。
 この頃、新羅の都である慶州(キョンジュ)は、瓦ぶきの家が立ち並び、道路は石や煉瓦で敷き詰められていました。また、東洋で一番古い天文台である瞻星台(チョムソンデ)や、新羅の仏教文化を代表する仏国寺(ブルグッサ)・芬皇寺(ブンファンジ)・皇龍寺(ファンニョンサ)などが、豪華さを競いあっていました。大和政権が、東大寺や大仏をつくったのは、このような新羅への対抗心があったのかもしれませんね。

渤海(パルヘ)の建国
 新羅と唐の連合軍によって滅ぼされた百済の人々の多くは、倭の国に逃げてきました。そして、倭の国づくりに大きな役割を果たしました。同じように新羅と唐の連合軍によって滅ぼされた高句麗の将軍の大祚栄は、699年ごろ、振(震)の国を建国しました。大祚栄(テジョヨン)を初代王とする振(しん・震)の国の名前は「東方の日の昇る国」という意味で、同じ頃から倭が「日の出る国」の意味で日本という国名を使い出したのとも、よく似ています。
 713年になると、振と唐の関係がよくなり、大祚栄は渤海王(パルヘおう)と名のり、国の名も渤海と呼ぶようになりました。この国の宮殿の建て方は、高句麗風で、仏教が広まり、唐からは「海東の盛国(海を渡った東にある発展した国)」と呼ばれていました。

遣新羅使と遣渤海使
 7世紀になると、朝鮮からの渡来人の力によって、倭は国としての形が整いはじめてきました。さらに、朝鮮や中国の進んだ文化や学問を学ぶため、また朝鮮との関係や国のつきあいのあり方を調整するために、多くの使節が日本から派遣されました。
 最初の遣隋使は、聖徳太子が渡来人蘇我氏の一員として、隋と高句麗との争いを心配して派遣したと考えられています。中国に派遣された、留学生や留学僧は、高向漢人玄理(たかむくのあやひとげんり)や僧旻(みん)、南淵漢人請安(みなみぶちのあやひとしょうあん)をはじめほとんどすべてが、朝鮮からの渡来人、またはその子孫でした。
 そして、中国への使節よりも、はるかに回数も多く大きな成果を日本に持ち帰ったのは、朝鮮への使節でした。渤海への使節は15回が確認されており、新羅への使節は31回派遣されたと書物に書かれています。さらに、中国から日本へは使節がほとんど送られてこなかったのに対して、新羅や渤海から送られてきた使節からは国際情勢だけではなく、多くの進んだ学問や文化を日本は学びました。
 三国の動乱による渡来人が倭の文化・技術形成に大きな影響を与えた時代の後、遣新羅使と遣渤海使等が花形であった8〜9世紀の時代がやって来たのです。
7〜9世紀の日本(倭)からの使節
使節名 回数 年代 備考
遣隋使 607〜614 対中国
合計18回
遣唐使 16 630〜838
遣新羅使 31 668〜779 対朝鮮
合計46回
遣渤海使 15 728〜811

遣新羅使と遣渤海使
 7世紀になると、朝鮮からの渡来人の力によって、倭は国としての形が整いはじめてきました。さらに、朝鮮や中国の進んだ文化や学問を学ぶため、また朝鮮との関係や国のつきあいのあり方を調整するために、多くの使節が日本から派遣されました。
 最初の遣隋使は、聖徳太子が渡来人蘇我氏の一員として、隋と高句麗との争いを心配して派遣したと考えられています。中国に派遣された、留学生や留学僧は、高向漢人玄理(たかむくのあやひとげんり)や僧旻(みん)、南淵漢人請安(みなみぶちのあやひとしょうあん)をはじめほとんどすべてが、朝鮮からの渡来人、またはその子孫でした。
 そして、中国への使節よりも、はるかに回数も多く大きな成果を日本に持ち帰ったのは、朝鮮への使節でした。渤海への使節は15回が確認されており、新羅への使節は31回派遣されたと書物に書かれています。さらに、中国から日本へは使節がほとんど送られてこなかったのに対して、新羅や渤海から送られてきた使節からは国際情勢だけではなく、多くの進んだ学問や文化を日本は学びました。
 三国の動乱による渡来人が倭の文化・技術形成に大きな影響を与えた時代の後、遣新羅使と遣渤海使等が花形であった8〜9世紀の時代がやって来たのです。

* * 考えてみよう、調べてみよう * *

@新羅の統一が、朝鮮や日本に与えた影響を出来るだけたくさんあげてみよう。
A渤海が日本とよく似ているのはどんなところだろうか調べてみよう。
Bこの時代、日本が使節を送った相手国は、中国より朝鮮の方が多かったのはなぜだろうか考えてみよう。

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