弥生時代から古墳時代へ(謎の4・5世紀)

弥生時代に日本列島に持ち込まれたもの
 日本列島で稲作農業が行われ、金属の道具が使われはじめたころ、銅と錫を混ぜ合わせた青銅という硬い金属器が使われはじめました。青銅器として、銅剣や銅鐸があらわれ、朝鮮の加羅(から)諸国(右下に地図)などからの渡来人が持ち込んだ鉄器も使われました。
 日本では銅も鉄もほぼ同じ紀元前3世紀ごろから使われるようになりましたが、朝鮮では青銅器が紀元前10世紀ごろから、鉄器は紀元前4世紀ごろから使われはじめました。
 普通は、朝鮮のように青銅器と鉄器が最初に使われだした時期は、大きく食いくい違うことが多いのですが、日本はほとんど同じ時期から使われています。これは、鉄も青銅も自分たちがつくり方を発見したのではなく、渡来人によって日本列島に持ち込まれたと考えると説明が出来るでしょう。
 日本では銅剣や銅鐸は、時代が後になるほど実用品としては使い道のない、飾り物や祭りの道具に変化していきます。これは、日本に持ち込まれた青銅器を溶かして、もう一度つくり直したと考えると説明がつきます。
 鉄は、鉄器という道具として持ち込まれた以外に、鉄のかたまり(鉄てい)という原料の形で持ち込まれ、農機具などにつくり直されました。これらの道具は韓鋤(からすき)とか韓鍛冶(からかじ)とかの名前が残っているように、加羅(から)諸国などから日本にやってきた渡来人の技術でした。

新しい支配者
 鉄は、農機具として使われただけではなく、武器としても使われました。このような新しい力を持った人々は、それより前に日本にやってきていた弥生人たちを支配するようになりました。
 この支配者たちは、ため池・堤防・用水路などをつくり、水田を各地に開いていきました。また、今までの日本になかった古墳をつくる習慣や、古墳に大切な宝物を入れたり、古墳の壁に絵をかく習慣なども日本に持ち込みました。
 これらの技術や習慣は、すべて朝鮮に昔からあったものでした。古墳の中から見つかる副葬品(遺体とともに葬った宝物)や壁画は、当時の朝鮮のものとそっくりなものがたくさん見つかっています。
模写図 高松塚古墳の壁画

古いまちがった考え方
 今の大人の人たちは、日本の天皇家が4世紀には朝鮮の南部(加羅諸国)を支配し、5世紀の初めまでには高句麗(朝鮮北部)までも支配したという話を、学校で歴史として勉強させられていました。しかし、これは「日本書紀」というお話の本に書かれているだけで、事実ではありません。
 当時の大和政権は、日本全体を支配していたのではなく、日本の各地で生まれてきた新しい支配者の一つすぎませんでした。また、何回も海を越えて朝鮮の南部(加羅諸国)を支配する力もありませんでした。そして、朝鮮南部には昔日本に支配されたことを示す証拠は何一つ残っていません。
 「いや、『広開土王碑』という証拠がある」という一部の人もいます。この石碑は今の中国東北部の吉林省集安県にある石碑です。その中に「倭(当時の日本)が海を渡って、百済と新羅を破り、高句麗まで攻めてきた」と読み取れる文章があるというのです。しかし、この碑は日本の力を示すためにつくったものではありません。高句麗の広開土王の素晴らしさを示すためにつくられたものです。
 碑文の解釈にはいろいろな説がありますが、韓国・朝鮮の学者は「百済は倭(日本に住む百済からの渡来人)まで動員して戦ったが、高句麗はこれを破り、新羅まで支配した」と解釈する学者が大部分です。大和政権が九州まで支配するのは6世紀ですから、4世紀末に中国東北部まで攻めこんだと考える一部の人たちの主張には、かなりの無理があるのではないでしょうか。

公開土王碑
碑文の「倭渡海」部分の拓本写真
(百)殘新羅舊是屬民
(由)来朝貢而倭以辛
(卯)年來渡毎破百殘
(更)□新羅以爲臣民
を含む拡大写真
公開土王碑全体写真

京都大学人文科学研究所所蔵 石刻拓本資料より

* * 考えてみよう、調べてみよう * *

@日本ではなぜ、青銅器と鉄器が同じ時期から使われはじめたのでしょうか。
A日本列島と朝鮮半島の古墳や副葬品に、どんな共通点があるのでしょうか。
B「大和政権が4〜5世紀に朝鮮の一部を支配した」という考え方の、どこに無理があるのでしょうか。

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