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山梨セミナー講演(2001年12月8日)

全朝教の歩みと在日朝鮮人教育
全朝教(全外教)副会長 金井英樹

はじめに
歪められた見方
本名を呼び名のる
「名前は人格権」
未来をつくる
阪神教育闘争
教育方針と県外教
「新渡日」と「就学前」の子どもたち
全朝教(全外教)セミナー
国際結婚の増加
「ナラ(奈良)=都・国」
地方参政権の問題
全国水平社の提起
『奈良・在日朝鮮人史』から
教材『オッケトンム』など
教員向けの本
「意識調査」の分析から
本名就職に向けて
高校生交流会の活動
ともに生きるために
差別禁止法と「石原発言」

はじめに
 おはようございます。ただいま紹介いただいた金井です。奈良から東京回りで昨夜やってきました。山梨へは数年前にも石和温泉での集会に来ておりまして、地元の元気なとりくみを聞かせていただきました。
 時間もありませんので、さっそくレジュメに沿いながらお話したいと思います。
 在日運動の広がりは、70年代前半の朴鐘碩氏の日立就職差別裁判闘争が一つの画期でしょう。あるいは、人格権裁判ともいわれる崔昌華さんの一円訴訟、司法修習生の金敬得さん、関西では、阪神間六市一町の公務員採用、西宮西高校生徒の電電公社(当時)、郵政外務職等の国籍条項撤廃などの闘いがあり、部落解放運動からの反差別共同闘争などの提起もそれらのとりくみに大きく影響しています。私たちが奈良で組織的にとりくみ始めたのも70年代の後半からです。
 奈良は、大阪のような在日の集住地域がありません。典型的な少数点在型の地域で、全国的には、この方が多いと思います。1979年に高校教員が中心となって、奈良・在日朝鮮人教育を考える会(現在は、多文化共生フォーラム奈良)を組織しました。その年に第1回の全朝教研究集会が大阪の解放センターで開かれました。
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歪められた見方
 全朝教(全外教)の活動については、大きく3つの柱をあげることができるかと思います。
 まず、第1は、植民地時代に出来た誤った見方、私たちは、歪められた朝鮮観と呼んでいますが、朝鮮の独自性を否定し、その民族性をおとしめるような考え方、それを克服することです。最近は、わずかながら是正されたものもありますが、基本的にはいまだにマイナス・イメージでとらえられている。例えば、奈良県内のある国立大学生を対象にした意識調査で、「あなたが朝鮮という言葉を聞いて思いつくイメージは」という問に対する回答が「暗い」「貧しい」「劣っている」「何かしらいやだ」などというものが多数を占めた。高校生については後ほどふれますが、十数年前は同じようなものでした。こういう歪んだ隣国観を克服するとりくみが第一にあります。
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本名を呼び名のる
 2つめに、私たちは、1970年代末の結成当初から<本名を呼び・名のる>運動を提起してきました。これは、在日コリアンの子どもが、本名を名のれる日本の学校・社会をつくろうという提起です。多くの在日コリアンの子どもは、学校の中で日本名=通名を使うことを余儀なくされています。それは、圧倒的多数の日本の子どもが持つ歪められた見方にとりまかれていることからきています。ですから同化=日本人化を強いられる。
 誤解のないようにしてほしいのは、このとりくみは決して在日コリアンの子どもに強いて「名のらせる」ことではありません。名前を呼ぶ側の日本人の子どもたちが当たり前のこととして、本名=民族名を呼ぶこと、それがあって、在日の子どもが自然に本名を名のることが出来る。ですから、少数の在日コリアンの子どもたちをとりまく圧倒的多数の日本人の子どもの意識を変えていく中で、本名を名のれる状況をつくっていくことなのです。
 奈良県の高校では、最初1979年に在籍実態調査を実施した時の本名使用率は、わずか5%でした。それから20数年毎年調査をしていますが、ようやく15%から20%になってきました。3倍から4倍に増えたわけです。さまざまな要因があると思いますが、そのひとつは教育現場での実践の広がりであろうと思われます。しかし、逆に言えば、8割もの子どもたちが、本名=民族名を名のれない状況がいまだに存在している。植民地下での1940年の「創氏改名」政策が60年を超えた今も生きている。
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「名前は人格権」
 人格権というのは、はじめのところでも人格権裁判と言いましたように、日本の裁判所は「名前は人格権である」ということを判決の中で書いているんです。ところが、私たちの中で、そういう人格権という捉え方をしておる教員がどれだけおるのかということなんですね。先程、言いましたように、例えば奈良でも八割もの子が、まだ日本名を名のらざるをえないような状況、これは八割の子どもが人格権を侵害されているというふうに捉えられるわけですね。ところが、そういう理解をしている日本の教員がどれだけおるか、そういう問題だろうと思います。
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未来をつくる
 それからもう一つは<未来をつくる>という書きようをしていますが、いわゆる教育の専門用語でいうところの進路保障の問題です。先程もちょっと触れましたが、いわゆる国籍条項というものが進路を阻むということについて、日本人はほとんど意識をしてこなかった。ところが70年代の半ば以降、全国各地で国籍条項撤廃という声があがりまして、奈良でも同じ時期に国籍条項撤廃の運動が始まるわけです。
 ここで、みなさん方のお手元のブックレット『在日朝鮮人教育入門2』の部分訂正ということでお願いをしたいんですが、27ページをご覧をください。27ページのところに奈良県内の進路保障のことということで、私がしゃべっている文章なんですが、下に表がありまして、奈良県△、奈良市△、橿原市△、というふうに記号がついています。これは門戸を開いた職種もあるが、一般事務職はだめであるというところです。それが今は消防職を除いて全部○になっています。
 そこにあるのは95年、6年前の調査で、一部の職種で門戸は開放されたものの、当時は国籍条項がまだ奈良県職員をはじめ県内いくつかの市であったんですが、今はすべてこれは○ということで、国籍条項を撤廃いたしました。ここに到るまでには、奈良県内の20数年のとりくみがありまして、行政が自ら撤廃をするというのは、なかなかなかったわけで、私たちが実際に個別の生徒たちにかかわって、私は高校現場におるわけですけれども、高校生が自分も公務員になりたい、ということで、願書を持って行くんですよね、当該の市に。そうすると一般事務職はダメだと、はねつけられて、受験すら認めないわけです。そこから交渉が始まるわけです。
 どこの市町村行きましても、市町村役場の入口には「差別をなくそう明るい街づくり」とか、大きな看板に書いてあるわけです。私たちはまず、それを問題にしましてね、あそこに書いてある看板と、あんたのとこでやってることは違うではないかというところから始めましてね、そして、粘り強い交渉をするわけです。
 なぜ、そういうことをやるかというと、みなさんのレジメにも書いてありますが、労働基準法第3条それから職業安定法第3条に、国籍による差別はあかんと、はっきり書いてあるわけですよ。法律に明文で、国籍による差別はあかんと書いてあるのに、行政が勝手に国籍条項なる差別を設けている。これは、おかしいということで、奈良県内の国籍条項を撤廃してきた。それはまた、一方、最初の全朝教研究集会が開催された1979年に、日本が批准をしました国際人権規約の中にあります<内外人平等>という、この原則を現実のものにしていく。そういうとりくみでもあったということを私たちは確認をしておきたいと思います。次に、全朝教のあゆみが、レジュメに簡単に書いてあります。
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阪神教育闘争
 第1回集会が1979年、全国から約600人の教員を集めて教育研究集会を持ちました。この時はまだ準備会ということで、組織名称に準備会という名称がついていました。
 阪神教育闘争、この35周年の記念集会の時に、1983年でありますが、準備会の名称をとりまして、全朝教が正式に発足いたしました。
 この阪神教育闘争についても、ほとんどの日本教育史の中で扱われていない。在日の戦後史の中では、これは欠くべからざる歴史であります。戦後初期に在日の人々が民族教育を確立をしようということで、全国各地に民族学校をつくった。それに対してGHQと日本政府は弾圧を加える、そういう大事件です。大阪では、金泰一くんという当時16才の少年が警察官に射殺されるという、死者まで出した大事件であるのに、ほとんどの日本教育史、しかも戦後教育史の中で欠落させられているのが、この事件だろうと思いますけれども、そういう事件の35周年の時に全朝教が正式発足をしました。
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教育方針と県外教
 その83年に、初めて大阪を離れまして、第4回大会を奈良で持ちました。最初の奈良大会です。そして第5回は兵庫で開催、初めて高校生・大学生の交流会を設けます。そういう中から子どもたちの声を聞こうとするとりくみです。
 それから第7回大会の年、1986年のところに*が書いてあります。今、全国各地で在日外国人教育指針あるいは教育方針というのが出ておりますけれども、都道府県レベルでこの教育指針を出したのは、奈良県が最初なんですね。それまでも市レベルのものはいくつかありましたけれども、県単位のものはありませんでした。86年の6月に奈良県教委が、「在日外国人児童生徒に関する指導指針」を出しまして、これ以後、全国各地で、こういう指導指針といったものが、都道府県レベルでも出されるようになりました。
 奈良では、その指針を受けましてですね、指針を出しても、いくらいいことが書いてあっても現実のものにならんと意味がないわけですから、それを具現化するために、90年に奈良県外教、奈良県外国人教育研究会というものを起ち上げます。今日、午後から話をするパネラーの1人は、県外教の事務局担当者です。この県外教、奈良県外教という組織が出来て、その翌々年に大阪府外教、大阪府在日外国人教育研究協議会、府外教ができ、そして、さらにその4年後には兵庫県外教ができます。三重県外教、神奈川県外連、これらの組織からも、午後からのパネルに参加されると思いますが、現在各地にそういう県外教、県外連等々の、外国人教育を実際に進めていく組織、そういうものができております。
 ぜひとも、実践を広げる意味では、この山梨の地でも、山梨県外教という格好で立ち上げをしていただいたらと思います。
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「新渡日」と「就学前」の子どもたち
 さて、第8回のところにもどりますと、広島が中国地方で最初に研究大会をやりまして、この大会で参加者がようやく1000人を超えました。さらに翌年、関東で初めての神奈川大会を開き、そして九州で初めての福岡大会と、こういう上り調子でですね、全国的に拡大を見せて行きます。また2回目の奈良大会を全国初の県外教結成の翌年、91年に奈良で開催しました。全朝教大会として初めて2000人を越す参加者をその奈良大会で集めたわけです。これはその前年に先程言いましたように、奈良県外教という組織ができておりますから、組織的な動員体制が非常に効いたというのが実際のところであります。
 そして奈良大会の後、首都・東京で初めて開催、東京大学を会場にお借りして研究大会を開きました。この時にいわゆる「ニューカマー」、「新渡日」の子どもたちの教育問題をめぐる分科会がつくられました。これはやはり90年代になりますと、「ニューカマー」の子どもたちの問題が、抜き差しならない問題として浮上してきます。それ以後「ニューカマー」の子どもたちをとりまく問題というのは、全朝教内部でもさまざまな論議を重ねてきました。
 さらに翌年14回京都大会では「就学前」教育の分科会が設けられます。それまでの全朝教は小学校、中学校、高校の教育と捉えていたのですが、もっと前の段階からやらないといけない。子どもたちが小学校にあがる前の保育所や幼稚園の時から、異なる文化と自然に出会わす。そういうことをやらないといけないのではないかということで、「就学前」の分科会を設けました。それ以後、幼稚園、保育所からの報告をいただいております。
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全朝教(全外教)セミナー
 さらに2度目の兵庫大会で「阪神淡路大震災と在日朝鮮人」という特別分科会を設けました。2度目の福岡大会の年には、全朝教セミナーを神奈川で「多文化共生シンポ」としてはじめて開催しました。これまで全朝教というのは大抵夏に1回、研究集会を持って実践報告をやっていたんですが、それだけでは足らんだろうと。各地へ出掛けて行ってセミナーという格好で、それぞれの地域を束ねていこうということにします。今年も、鳥取県米子市で山陰セミナーをやりました。そして、ここ山梨で今、第9回セミナーを開催しています。来年、三重大会に向けて、三重でもセミナーをやります。そういう意味ではもっともっと全国的に全朝教の活動を広めていくことが求められています。
 何度も言いますが、在日コリアンの問題というのは在日コリアンを取り巻く圧倒的多数の日本人の問題なわけですから、どこでもそういう意味では問題があるわけですね。日本人が持っている歪んだ見方、植民地支配に対して未だに無反省ということが続いておる。そういう状況を私たちは変えていくとりくみが迫られていると思います。
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国際結婚の増加
 もう一つ、その下に「外国人登録者数に占めるコリアン比率」っていうのがあるんですが。
 全朝教が発足した当時というのは8割以上が在日コリアンでした。だから外国人と言えば在日コリアンをほとんどの人が思い描いたわけですが、年々その相対的な比率というのは低下しています。昨年末の統計ですと、37.7%で、4割を切っているわけです。
逆に言うと「新渡日」の増加の問題がありますし、もう一つは日本籍ダブルの問題。日本籍者の増加です。ここ何年か毎年1万人以上が日本籍を取得しているということが伝えられております。それが一つと、国際結婚の増加の中でダブル、私たちは2つの文化を持つという意味でダブルという表現をしておりますけれども、ダブルの子どもたちの問題がやはりこれからますます、浮上してくるだろうと思います。
 そこに「国際結婚の増加」という資料をあげておりますけれども、これは99年のものでありますが、全体の4.2%ですね。70年でありますと、0.5%であったものが80年に0.9%、それが今4.2%なんです。国際結婚が70年からいうと率にして8倍以上になっている。ですからだいたい25組に1組ですか、全国平均がね。そういう格好で国際結婚の増加が報じられていますし、この比率が増えることはあっても減ることはないんですね、今後。そういう意味で子どもたちの持つ差別や排外意識を克服するとりくみは重要です。今後の在日外国人教育の中でのありようということを私たちはやはり考えなければならんと思っています。
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「ナラ(奈良)=都・国」
 奈良の歩みからということで簡単にお話をしておきますが、奈良県についてのみなさんのイメージはどうですか。奈良ということで何が思い浮かぶかというと、先程、会場である方とお話をしておったら、奈良というと大仏ぐらいしか思い浮かばない、大仏と鹿ですね。奈良県の人はみんな1家に1匹鹿がおるという勘違いをされている人もおるようですけれども、家には鹿がおりません。奈良公園というところに鹿がおるんですが、奈良というのは、みなさん何語かご存じですか。
 実は奈良というのは朝鮮語なんですね。国とか都を意味する言葉が奈良という言葉です。ですから在日コリアンと話をしていると、よくウリナラという言葉、私の国という意味なんですけれども、よく聞きます。おそらく奈良の歴史には、古代、朝鮮半島から大勢の渡来人が移り住んだところが奈良であったことが刻まれている。
 奈良には飛鳥という地名がございます。飛ぶ鳥と書いて、アスカ=飛鳥と読ませるんですね。飛ぶ鳥と書いて、普通はアスカと読むはずがないですね。そう読むんだと教えられてますから読んでいる。渋々ではないですが、読んでおりますけれども、飛鳥というのも実は朝鮮語であります。飛ぶ鳥が羽を休める安らかな宿、飛ぶ鳥というのは渡来人のことを飛ぶ鳥と表現したわけですね。これは決して地名の言葉遊びではなくて、日本の古代の六国史という「正史」(国家の歴史)がございますけれども、その中に古代の飛鳥、高市の郡というのは、その居住者の8割から9割までが渡来人だったと、はっきり『続日本紀』という書物の中に出てくるわけで、そういう意味では渡来人の里なんですね、奈良は。
 奈良県内には、ですから渡来人の足跡というのはたくさん残っておりますし、大仏を建立した主要な人々すべて渡来系の人々なわけです。大仏殿の近くにある神社、東大寺の中には辛国神社がございましてね。「からくに」というのは、漢字で今は「辛国」、辛い国と書いていますが、もともとは加羅、韓国という表記が、後に辛国へ変わっていくわけです。そういう渡来系文化がたくさん残っておるところであります。
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地方参政権の問題
 一方で、奈良というのは保守的な地でもあります。地方参政権の問題が、ここ数年とりざたをされておりますけれども、参政権の問題というのは、民主主義社会では当たり前のことなんですね。税金を収めているのに、自分の住んでおる自治体の選挙権もないという現実、これは民主主義の原則に反するわけです。アメリカがイギリスから独立した時に有名な言葉がありましたね。「代表なくして課税なし」というんですね。まさにその代表も送れないのに税金だけ課せられるのはおかしい。そういう民主主義に反することを、戦後半世紀間、日本政府はやっているわけです。
 参政権の歴史というのは1945年の12月までは、当然ですが在日コリアンには参政権があったわけです。ところが、戦後の衆議院議員選挙法の改正の時に、在日コリアン、それから台湾人と沖縄出身者の参政権がとりあげられて、代わりに女性に参政権が与えられるという選挙法の改正がありました。ところが、こんな歴史も実は学校ではなかなか教えてくれないんですね。教科書はそんな歴史を書いてないんですね。今、地方参政権の問題で言いますと、九五年に最高裁が、日本国憲法の条文によってその参政権を、参政権と言っても半分の選挙権だけを与えてもよいという判断を下しています。
 日本国憲法も「日本国民」と書いてある部分と、「住民」と書いてある箇所がある。地方自治の章だけは「住民」と書いてあるんです。それを根拠に最高裁は地方参政権の判断を下したわけですけれども、未だにそれが立法化されていない。立法化されていない理由は自民党の中の極めて保守的な部分が反対をしているわけで、その元凶の一人なんかも奈良県選出の代議士でおりまして、そういう意味では、奈良というのは非常に保守的なところだという言い方をされています。
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全国水平社の提起
 もう一方では戦前、部落解放運動が奈良で始まりました。全国水平社ですね。1922年に奈良県御所市、当時は南葛城郡と言いましたが、そこの柏原村というところで、3人の青年が中心になりまして、水平社創立事務所をつくり、全国水平社を立ち上げてまいります。そういう歴史が奈良県にはあります。現在、水平社博物館というのが奈良県御所市柏原の地にできておりますので、ぜひとも機会があったらご覧いただきたい。
 そういう反差別の歴史というのを奈良県は持っています。と申しますのも、みなさん関東大震災で少なく見積もっても6600人以上の在日朝鮮人が日本人に虐殺された歴史を御承知だろうと思いますが、その1923年の9月から半年後、1924年の3月に全国水平社は第3回の全国大会を開いているんですね、京都で。この全国水平社の第3回の大会で、奈良県の小林水平社は、在日朝鮮人の差別撤廃運動に声援するという提案をしているんです。
 1924年3月です。1923年9月に、あれだけの虐殺事件がある。その半年後に全国水平社の大会で在日朝鮮人の差別撤廃と連帯をしようという提起を奈良県の小林水平社が行なう。みなさん『橋のない川』という小説をお読みになったことがあると思いますが、あの小説の中に設定された村なんですけれども、村が出てまいります。小林という村に一本木を足すんですね。それで「小森」というモデルを住井すゑさんは、おつくりになっとるんです。中身は柏原水平社と小林水平社をあわせたような中身で『橋のない川』は書かれておるんですが、そういう水平社の当時から反差別国際連帯、そういう歴史が奈良県ではあったということも知っておいてほしい。
 また、当時、水平社ができた翌年、朝鮮での解放組織、朝鮮にも被差別民がおりまして、「白丁」という蔑称で呼ばれた被差別民、彼らの解放をめざす衡平社、日本読みでコウヘイシャ、朝鮮語読みでヒョンピョンサですが、そういう団体ができます。それとの交流を全国水平社はやるんですね。これも奈良県の人で、米田富さん、この人は衡平社と関係を持ちますし、さらに関西朝鮮人連盟が当時できまして、そこに連帯の挨拶に行く。そういう歴史も掘り起こしていく必要があろうと思います。
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『奈良・在日朝鮮人史』から
 なぜ、こういう史実を紹介したかと言いますと、知られていないことがあまりにも多すぎるのです。「奈良の歩み」の水平社の後にある『奈良・在日朝鮮人史』(川瀬俊治著)という、これは私どもが資金を出して刊行した本なんですが、85年、今からもう16年前の話です。この当時まで奈良県内の例えば『奈良県史』とか、『?市史』、『?町史』、いわゆる『市町村史』に、在日朝鮮人がほとんど登場しないんです。現実におるのに、書かれていない。
 例えば奈良県の主要な鉄道、奈良県内の道路、誰がつくったのか書いてないんです。戦後40年目に初めてこの『奈良・在日朝鮮人史』で、奈良県内の主要な道路、鉄道そういうところは在日朝鮮人の労働で出来あがっていたんだということが明らかにされる。当たり前の歴史なんですね。あるいは奈良と大阪を結ぶ生駒トンネルがある。この工事もやはり在日朝鮮人がやってるわけです。あるいは戦争中には奈良県天理市の柳本飛行場という海軍の飛行場の建設がある。これをやったのは誰か。あるいは屯鶴峰地下壕という、これは敗戦まぎわに急遽つくられた壕なんですが、ここには、朝鮮北部から徴兵された兵隊がやってきて、突貫工事で壕をつくりあげるんです。これは軍事的な機密ですから、外にそれが漏れてはまずいというので、わざわざ朝鮮北部から徴兵した兵士たちが、その壕をつくった。
 こういう歴史というのは、松代大本営はじめ日本全国各地に残っているんですね。今ようやく全国各地で、そういう隠された歴史が発掘されるようになってきましたけれども、奈良にもそういうことがあります。
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教材『オッケトンム』など
 さらに、そういったものをもとに、子ども向けの教材をつくる。『オッケトンム』=「オケドンム」ですね。なかま、肩組み友だちという意味です、そういう教材をつくっております。奈良県には同和教育のテキスト『なかま』というのがありましてね、それをなんとか朝鮮語にしようということで、いろんな案が出たんです。民団・総連双方に『なかま』をなんとか訳せないかという話をしまして、総連に行った時に「トンム」(同務)というのが出ましてね。最初「トンム」でいこうかと言ってましたら、民団に行くと、それはちょっと困ると。「トンム」は困る、当時は「冷戦用語」というらしいですが、そういう言葉でありまして、「オケドンム」なら民団の方もオーケーだという話で、「オッケトンム」ということにしました。
 一つは歴史ですね。特に奈良の古代から戦後までの歴史を子どもたちに伝えようということで『歴史編』をつくる。もう一つは、それこそ就学前から日本の子どもと在日の子どもが自然にお互いの文化を知るために、ということで、『遊び編』、それから『音楽編』。隣の国の遊びや音楽から自然に触れていこうということで、そういう教科書をつくりました。また、戦中の歴史を知るために『強制労働編』もつくりました。たぶん、午後、奈良のメンバーが持ってくると思うんです。今、車で移動中だと思うので、到着しだい、またお手に取っていただきたいと思います。
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教員向けの本
 それから、『差別と排外を撃つ』という実践集をつくりました。『トゥンデ』(灯台)というのもそうです。それから毎年、研究実践レポートを出しています。
さらに『Q&A』という啓発本、何よりも、知らんのは教師なんです、実は。教員自身が在日コリアンの問題について、あまりに知らなさすぎる。先程ですね、ある大学生の調査を紹介をしましたね、マイナスイメージについて。実は、同じ中身を奈良県内のある郡市の、どことは言いませんが、ある郡市の教員を対象にやったことがあるんです。そうしたら、あんまり学生と変わらんのですね。
 知識は若干あります。知識は若干ありますけど、マイナスイメージということでいうと、ほとんどの教員が、やはり自身もいい出会いをしていないんですね。例えば、先生方の朝鮮との出会いを教えてくださいという問いがある。ある幼稚園の先生、女性の方ですが、子どもの頃に、片膝を立てて座ってた。そうしたら、お母さんから「行儀が悪い、朝鮮みたい」と叱られたというんです。それ以降、自分の中で朝鮮という言葉はマイナスのイメージ。これは単に文化の違いだけですよね。片膝を立てて、それこそチマ・チョゴリを優雅に見せるために片膝を立てるわけでしょ。要するに正座の仕方が違うだけのことを、日本の文化でもって切り捨てている。朝鮮では、両膝を屈する日本の正座というのは、罪人の座り方なんですね。そういう文化の違いに優劣をつけて判断をしている。まさに植民地支配的な発想が、戦後も長らく続いておるんですね。
 だから私たちが教員のみなさんに提起しましたのは、<出会い直し>ということなんですね。教師自身が、隣の国との豊かな出会い直し、在日との豊かな出会い直しをしてください、という提起をしてまいりました。そんな中で『Q&A』というもので、先生方の疑問に答えるということですね。いろいろな問いと答を収録してですね、そういうものも出してまいりました。そして今、一番新しいのは、全朝教から『一問一答 在日外国人教育』を出してますので、またご覧をいただければと思うんです。
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「意識調査」の分析から
 「意識調査」というのがあります。一つは80年代の半ばに実施し、それからの変化を探るために90年代の半ばにも行っております。だいたい奈良県内の高校生レベルなんですね。1000人ほどピックアップしまして、奈良県内を北、中、南と三つくらいの地域にわけて、公立普通科、職業科、それから私学にも協力を得まして、だいたい総数で1000人くらいの意識調査をやったことがあるんです。
で、80年代半ばの調査結果は、やはりマイナスのイメージが非常に強かったんです。ところが、県外教をつくり、いろいろなとりくみがひろがりをみせる。この間の意識調査で、一番最初の調査ではこんなことがあったんです。私たちが一番ショックを受けたのは、「隣の国についてどんなことが知りたいと思いますか」という設問がありまして、歴史とか文化とか生活とか言葉とか、いろいろな選択肢があるんです。何が最も多かったと思いますか。一番は「知りたいとは思わない」、これはさすがにショックでしたね。
 こういう現実を変えんとあかんということで、この間いろいろとりくみをして、ようやく90年代半ばの調査では、同じ問に対して、「生活」、隣の国の生活がトップに挙がるようになりました。だからね、何もしなかったらマイナスのままなんです。
 マイナスのイメージを変えるにはやはり教育実践がないと、マイナスのイメージというのは変えられないんですね。先程、本名使用率がはじめの5%が15%から20%に上がってきたというのもその例でしょう。教員自身が、本当に何度も言いますが、日本人の問題として、在日の問題を捉えて実践をしないことには、あるいは教員自身が出会い直しをしないことには、本当に変わっていかない。そんな現実があったし、私たちはこの意識調査の結果を見てようやく、やはり実践が子どもたちの意識を変えるんだという、そういう総括をいたしました。
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本名就職に向けて
 「国籍条項」の話で先程も言いましたように、現在は奈良県、さらに奈良県内に四七市町村がありますけれども、国籍条項を撤廃をしてきたところであります。
 それから「進路調査」、これも毎年、80年からやっています。そんな中で、やはり思うのは、在日の進路保障の問題ですね。これがまだまだ、できていません。日本人の子どもたちと較べると、縁故就職が多いんですね。縁故といっても、いわゆる、オモニ、アボジの関係とか、民族系の企業とかです。いわゆる日本人生徒のように、学校・職安を通して、正規のルートでいく子というのは、やはりしんどい。
 さらに、もう一つは本名就職の課題です。関西では、奈良だけではありません、当たり前のことですけれども、本名就職を実現するためのとりくみが展開されています。そのことが各地で、この21世紀、迫られてくるだろうと思います。当然のことですけれども、学校の中で本名使っていたのに、会社の中に入ると通名にせざるをえないという、そういうケースがまだあります。ですから、それは日本人社会そのものを変えていかないと実現しません。
 よく例に出すんですがね、奈良県には、ある有名な私学があるんですよ。クイズ番組によく名前が登場する、有名な私学がありましてね。東京大学にたくさん行かはるわけですが、在日の子が結構いるんですね。みなさん、在日の職業構成というのは、就職差別の結果、自営業が圧倒的に多いんですけれども、医療関係者も非常に多い。人口比で言えば日本人の4倍です、これは。親の願いとして、安定した職業に就いてほしい。要するに医者になれと。日本のような差別的な社会の中で生き抜くためには医者になれという親が多いんですよ。
 私の教え子にも、4浪して医学部に入った子がいました。4浪しようと思ったら大変なことなんですけどね。医者には国籍条項がない。しかし、獣医にはある。これもおかしな差別ですね。それで、奈良県のある私学の子どもが、東京大学の理3(医学系)へ入りました。本名で、まずは部屋探しです。不動産屋をまわりまして、本名を名のったら、みんな断られたって言うんですね。仕方ないので、今度は日本名で行ったんです。そうしたら不動産屋さんが、「東大の学生さん、お医者さんの卵ですか」って、ええ物件出してくれたというんです。彼は、その年の夏に奈良へ帰ってきて、「こんな状況ですね」と言ってましたけれども。そういう入居差別の問題がある。
 就職差別、本名就職の問題等々、これらはやはり、私たちとりまく側が考えていかなければいけない。というのも、国際結婚が非常に増えてますよね。在日コリアンの国際結婚も、もう85%以上90%近くなっているのではないでしょうか。そんな中で、教え子にも何組かそういう国際結婚のケースが出てきましてね。日本人の子が初めて民族差別を体験したんですね。「高校時代に先生から聞いていたけど、こんなにひどいとは思わなかった」って日本人の子が言うんです。在日コリアンと結婚して、不動産屋へ行って部屋を借りようとした時に、日本の不動産屋の対応が今まで自分の想像していた以上のものであったということを言う子がおります。ですから、まさに日本人の問題、日本人のそういう差別と排外意識をいかに正していくかということが私たちに迫られておると思います。
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高校生交流会の活動
 奈良では、子どもたちへも組織的にとりくんでいます。子どもたちに豊かな出会いをさせようということで、在日コリアン高校生から枠を拡大して外国人生徒を中心にして「生徒交流会」というのを開催しています。今で100何回目、110回ぐらいになりますか、この20年間でやってきました。あるいは「子どもフェスタ」でありますとか、「サンウリム」(やまびこ)というんですけれども、多文化共生の祭りをやってまいりました。こういうとりくみを通して、子どもたちをつないでいく。輪を広げていく。
 奈良は先程も言いましたように少数点在型の地域ですから、学校の中では在日の子は本当に、ひっそりせざるを得ない状況があるんですね。そこで、これらの子どもたちを出会わす場が必要となる。子どもたちは子どもたち同士で、いろいろな企画を練っていきます。そういう意味では、そういう子どもたちが出会える場をもっともっとつくっていく、そういう努力が、必要だろうと思います。
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ともに生きるために
 で、そんな中で私たちが本当に<ともに生きるために>ということで、先程から言っております、教育や入居や就職や結婚や参政権の問題、あるいは社会保障や戦後補償の問題などなど、さまざま解決しなければならない課題があると思うんです。
 「『国籍条項』四文字に我らはばまれてこの日本に生きむすべ問う」、この短歌は、三重に住まわれる在日の方の歌集から採ったんですけれども、私たちが本当の意味で、差別と排外の現実を変えていくとりくみ、そういう実践に立ち上がることが今、迫られておると思います。
 日本はいろいろな国際的な人権条約を批准しています。ところが、ほとんど実効していないんですね。初めて日本の裁判所で国連の人種差別撤廃条約が適用されましたのが、静岡地裁浜松支部の判決、99年10月に出された「『外国人お断り』というのは、人種差別撤廃条約違反である」と。要するに今まで裁判官が勉強していないわけですね、言ってみれば。裁判官が国際的な人権保護施策を勉強していなかった、今まで。裁判官が勉強してないから、国連から勧告を受けた。裁判官はもっと勉強しなさいという勧告を受けて、初めて99年に「外国人お断り」は違法であるという判決が出たわけでしょう。
 ところが、この判決後も、今、北海道で起こっている現実というのは、北海道のお風呂屋さんが「外国人お断り」という看板を出した。これに反対している市民グループがあって、その中の一人が、ドイツ人の方でしたかね、「外国人お断り」であれば日本国籍を取ればいいんだろうということで、日本国籍を取られたんですね。そうして、お風呂屋さんへ行かれると、「いや、どう見ても日本人には見えないので、駄目」と言われたというんですね。なんというか、そのような対応が、未だに続いているわけです。
 で、それに対する怒りの声が少数の当事者と支援グループ以外にほとんどあがっていないんです。日本政府がいかに怠慢か、というだけではなく、これだけの人権条約を批准しても、差別の現実が変わらんというのは、私たちの声が政府を動かすほどには届いていない。あるいは多くの人々が、本当に黙ったままでおるからです、言ってみれば。もっと私たちの声を大きくしないことには、現実にこの日本が批准している人権諸条約が実効あるものにならないという残念な現状があります。
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差別禁止法と「石原発言」
 もうあまり時間がないので、まとめに入りますけれども、今年の3月に日本政府に向けて出された国際的な勧告があります。資料が、みなさんのお手元にあると思うんですが、「資料3」と書いてあるものです。国連の人種差別撤廃委員会の最終所見というものです。日本政府に向けて、3月20日にまとめられました。この中に、日本の状況について、懸念事項ということで、いくつも指摘がされています。いろんなことが書いてあるんですが、この1枚目、ページ数が打ってある10番目を見てほしいんですが、「委員会は締約国の法律においてこの条約に関連する唯一の規定が憲法第14条であることを懸念する。この条約が自動執行性を有さないという事実を考慮し、委員会は、とくに条約第4条および第5条の規定に従い、人種差別を禁止する特別法の制定が必要であると信ずる」と。どういう指摘かおわかりですね。日本では差別を禁止する法がないというんです。憲法第14条だけだと。これでは、あかんやないかと。だから、あらゆる形態の人種差別を禁止する特別法の制定ということを今、日本政府はつきつけられているんですね。
 あるいは、この裏側を見ていただきますと、13番を見てください。「委員会は高い地位にある公務員による差別的な性格を有する発言、ならびに、とくに、条約第4条(c)の違反の結果として当局がとるべき行政上または法律上の措置がとられていないこと」、これが、何を指摘しているかというと、石原都知事の差別・排外の煽動発言について、国連は人種差別撤廃条約違反であるということを言っているわけです。したがって、日本政府は当然とるべき、行政上、法律上の措置をとらなければならないということを勧告しているんです。日本政府は、あの石原都知事の発言に対して何もやっていないではないかということを国連から指摘され、改善を勧告されている。
 しかしながら、ここでやはり考えてほしいのは、そういうふうに何もしていなくても許されるような状況がまかり通っているというのは、私たちの怒りの声が大きなものになってないということなんですね。私たちの声がもっともっと大きなものにならないことには、この差別と排外の現実、というのは都知事が言いたい放題を言って、それですむというような状況を変えられない。国際的には、これは明らかな差別・排外の煽動だとされるわけですね。にもかかわらず、平然と相変わらず暴言を吐きまくっている。
そういう状況を正すためには、私たち一人一人がもう一度、確かな歴史認識と社会認識を 持つこと、さらに、豊かな出会いを子どもたちに保障するためにも私たち一人一人が出会い直しをする。そうして、日本の反差別運動の歴史の中で、先程も言いましたけれども、全国水平社の先駆的な反差別国際連帯の動きがあったことに学ぶとともに、戦争協力という痛恨の歴史があったことにも学ばねばなりません。
 奇しくも今日は、60年前に日本が対英米戦に突入した日です。真珠湾奇襲として語られますが、今年の<9・11>にも全米でまず想起された出来事です。しかし、ここにいたる前には、「昭和」初期からの中国への出兵、1931年9月18日柳条湖事件すなわち中国東北部への侵略があったことを忘れてはなりませんし、37年7月7日の蘆溝橋事件からの日中全面戦争の拡大、さらには南京大虐殺事件、七三一部隊の細菌戦、東南アジアへの侵略等々の歴史も心に刻まねばなりません。
 日本では敗戦の日は「終戦」として語られても、開戦の日を戦争責任と絡めて語ることはまれです。戦後責任についてもほとんど無自覚ではないでしょうか。<戦争は最大の人権侵害>であることをあらためて確認し合いたいと思います。戦前には、民族差別が侵略戦争へ暴走する温床となりました。ちがいを認めあって、ともに生きることのできる日本社会をつくっていく。そのためには、私たち一人一人がまずは一歩を踏み出すこと、そして、反差別・多文化共生の大きなうねりをみなさんとともに全朝教(全外教)がつくりだしていければと考えています。
 時間がまいりましたので、これで終わりたいと思います。
 どうも、ご静聴ありがとうございました。
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